ページ番号1001837 更新日 平成29年9月15日
開設日:平成16年1月6日(火曜日)
「新選組流山に入る」と題し、新たに発見された恩田家文書をはじめ、新選組が本陣とした「長岡の酒屋」といわれている醸造蔵の階段などを展示しています。
流山は、新選組局長近藤勇が捕われた地として知られています。
博物館では、流山に残されている各家の古文書を整理したところ、流山における新選組本陣や新政府軍の行軍(こうぐん)経路、合戦の状況が記録された新資料を発見しました。
これは、思井の恩田家に残されていた文書の慶応4(1868)年4月3日の条です。「江戸方歩兵380人から390人あまりは、去る1日より2日にかけて流山の光明院・流山寺そのほかを借りて止宿(ししゅく)していた。長岡七郎兵衛(しちろべえ)方が本陣となり、この家に大将の大久保大和(近藤勇)と内藤隼人(土方歳三)の両人がおり、そのほかに大勢が止宿していた。そうしたところに官軍方の彦根・萩・鹿児島・大村(おおむら)から惣勢(そうぜい)870人から880人が鳩ヶ谷宿(しゅく)より出陣し、吉川の三輪野江(みわのえ)の渡し場を渡り、八ッ半(やつはん)頃に流山に到着した。そこから大坂屋の前で三手(さんて)に分かれ、一手は表通りから、一手は裏通りから、もう一手は裏手にある加村山(かむらやま)へ陣取り、大砲を長岡屋本陣へ向けて設置した。浅間(せんげん)裏に官軍方の大将は菊の紋付の旗をおし立てて本陣とし、江戸方の本陣長岡屋の方へ大砲を向け設置した。表通りの一手も大砲を設置し、いずれも3、4挺ずつが長岡屋本陣を取り巻いた。そのほか諸所(しょしょ)で双方が合戦となり、江戸方は不意をうたれて大敗し、ついには降参した。(中略)流山宿内(しゅくない)の者は大人も子どももみさかいなく立のき近郷(きんごう)や近村(きんそん)へ逃げ去り、近在の者までもが皆あわて騒ぎ、共々に難渋した」とあります。
新選組は慶応4年1月の鳥羽・伏見戦争で敗れて江戸へもどり、その後甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)と改名して勝沼で戦いますが、これにも敗れてしまいます。そして、江戸から五兵衛新田(ごへえしんでん・現足立区綾瀬)に拠点を移して再起を図り、流山に入ります。
これまで、流山における近藤勇や土方歳三たちの本陣は、『千葉県東葛飾郡誌』に拠(よ)ったと思われる司馬遼太郎の『燃えよ剣(けん)』で「長岡の酒屋」とされて以来、これが通説になっていましたが、このほかにも「鴻池儀兵衛(こうのいけぎへえ)」方を本陣とするなどの諸説もあって明確にはされませんでした。また、本陣以外の分宿場所も『官軍記』に記された「称名院(しょうみょういん)」を「光明院」と推測していました。
今回発見された資料には、長岡七郎兵衛方が本陣となり、光明院・流山寺そのほかに新選組が分宿していたことが明確に記されています。また、新政府軍が流山に入った経路や布陣、武器の配備なども具体的にされ、同時に流山の人々があわて騒ぎ、近村へ逃げ去ったなどの興味深い記述もみられます。
慶応4年4月3日、近藤勇は出頭して捕らえられ、4月25日に板橋で処刑されました。土方歳三は、江戸・会津・仙台を経て五稜郭に入り、函館で翌明治2(1869)年5月11日に戦死しています。
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