平成18年1月20日(金曜)、鰭ケ崎の雷(いかづち)神社で市指定無形文化財のおびしゃ行事が行われました。「おびしゃ」という名前は弓を射る「歩射(ぶしゃ)」からきていると言われています。流山はもちろん利根川の流域に広く見られるお正月の行事です。流山では、戦前までは地区ごとに土地の産土様の神社を中心にどこでも行われていました。今回、行われたのは鰭ケ崎地域のおびしゃです。鰭ケ崎というのは珍しい地名ですが、この地域には東福寺というお寺があり、そこに龍の鰭が落ちてきたという伝承があり、この名前になったということです。
鰭ケ崎おびしゃ行事は、江戸時代から行われていると言われていて、都市化が進む中にあっても毎年1月20日に続けられています。この日の午後、雷神社にことしの当番と、来年の当番、神社の役員の皆さんなどが集り、3時頃から神主さんによる神事が行われました。その後、社殿の中で七福神に扮装したことしの当番から裃姿の来年の当番へと杯を交わし、やり方や名簿などが記された帳面が手渡され、「トウ渡し」という当番の引き継ぎが行われました。ことしの当番の中でも中心となる「初戸(はなと)」と呼ばれる洞下登さんが中心になって行いました。
これが無事に終ると、いよいよ「的撃ち」。神社の社殿前から鳥居の方向に立てられた赤鬼、青鬼が描かれた的に向かって矢を射ます。赤や青の鬼の的も手づくりで、毎年、鬼の表情が違うのも楽しみのひとつ。この日は、井崎市長も的に向かって弓を射るなど行事に参加しました。五穀豊穣や家内安全などを願うということですが、もとは1年の占いの行事ではなかったかと言われています。手づくりの弓矢ですし、普段から弓などをしない方々ですから、例年はなかなか当たらないのですが、ことしは、1射目で、見事、鬼の的を射抜き、見物客などから大きな歓声があがっていました。
その後、直会(なおらい)という神様に上げたものを皆でいただく宴会のようなものが始まります。会場には、「鶴亀」というおめでたい飾り物が置かれていました。松の盆栽と、そこに大根の胴体に流山名産のネギで首をつけた鶴、聖護院大根という丸い大根を半分にしてゴボウで頭をつくった亀を一緒に飾ります。地域によっては、松竹梅を飾ったり、亀がつがいであったり、また、白米を白い砂のように撒いた上に飾るところもありますが、おびしゃには、こうした縁起物の飾りが付き物です。宴もたけなわになった頃、赤城保存会のお囃子にのって獅子舞やお神楽が舞われました。昔は、地域の人や子どもたちによって伝承していましたが、今は、赤城保存会の皆さんによって行われています。「たねがし」という狐と田吾作の種まきのおめでたいお神楽などが披露され、写真愛好家などが夢中で撮影していました。
おびしゃには、どこにも当番があり、昔は当番の家の人が他の人たちにご馳走を振舞うという側面も強かったようです。鰭ケ崎でも、かつては「びしゃ田」という田圃があって、当番が1年間、この田を耕作して、その収穫から行事を行い、ご馳走を地域の人たちに振舞ったということです。現在は、当番や役員の皆さんが中心ですが、昔は地域の人は子どもからお年寄りまで誰でも参加していました。現在は、90軒ほどの昔からの氏子の皆さんがおびしゃ保存会(山崎太郎会長)をつくって続けています。
直会が終わり夕方になると「おくりこみ」が行われました。花で飾った灯篭を先頭に恵比寿様や大黒様など七福神が万灯や提灯を手に行列をつくって行進します。現在は軽トラックに飾りつけた花自動車ですが、昔は台八車だったということです。今は使われることはありませんが、かつて、どぶろくを作っていた樽や味噌樽などおびしゃに使う道具等を乗せて、「受け当番」となる来年の当番の家々の中で、初戸(はなと)となる山崎あささんのお宅まで送っていきました。声を掛け合いながら沿道の人々にみかんを配りながらの移動です。この初戸のお宅でもまた杯を交わし、七福神の衣装を引き継いで鰭ケ崎のおびしゃ行事は、ことしも無事終了しました。受け当番となった7軒では、来年のおびしゃ行事をはじめ1月、5月、9月、10月に行う「おこもり」の賄いなどの行事を1年間仕切っていきます。
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