昭和の産業史その2


ページ番号1013080  更新日 平成29年9月15日


東初石は「ランバーコアの卓球台」発祥の地日本の卓球台を創った男

歴史を刻む東初石

 本年8月24日(水曜日)に開業の「つくばエクスプレス(TX)」は、東武野田線と交差する地点に乗換え駅「流山おおたかの森駅」を建設した。

 快速を利用すると「流山おおたかの森駅」から東京の秋葉原駅まで24分、北千住駅までを13分で結ぶ。かつて首都圏30キロメートル圏内の陸の孤島と言われた流山にとって、夢の21世紀を象徴する東京直結の快速鉄道である。

[画像]マツダ工業株式会社の写真(9.0KB)

 「昭和の流山産業史」第二話は、浅草の材木商・松田英治郎が、終戦直後の昭和21年、東初石の栗林を入手して流山市民となり、この地で、松田合板工業を興し、世界に雄飛する日本の卓球台を供給し続けた物語である。

 昭和61年、松田合板工業はマツダ工業に社名を変更する。記者が平成元年9月、マツダ工業を訪れた時、正門に「日本工業規格表示工場・通商産業大臣認可第380070号・卓球台」と書かれた金色のプレートが輝いていた。

 そこで、松田英治郎の衣鉢を継いだ松田英男社長と62名のスタッフが、ランバーコアの卓球台と取り組んでいた。「一見何の変哲もない一枚の板のように見える卓球台には、厳しいJIS規格があるんです」と松田英男社長。国際大会で使われる卓球台には最高の品質が求められる。平成3年、千葉県幕張メッセで開催された第41回世界卓球選手権に使用された120台のランバーコアの卓球台は、ここから送り出された。

梅擅は双葉より芳し

 「ランバーコアの卓球台」を発明した松田英治郎の軌跡を辿るために、昭和59年、彼の生家、福井県南条郡今庄の城ケ端(じょうがはな)に残る、古びた二階家を訪ねた時の驚きは忘れない。

 英治郎の母、川西ゆきは、川西佐右衛門三郎(新助)と、たつの一人っ子として広野二つ家で生まれた。先祖は、寿永2年(1183年)4月、加賀、越中国境の倶利伽羅峠で木曽義仲の火牛攻めにあって敗走した平家の落武者の一人、佐右衛門三郎祐守と言われる。平家の落人の末裔らしく、ゆきは、すらりとして面長で、色白の器量よし、父親に似てはっきりした気性の娘だったと、お公家さんのような顔立ちの川西勇翁が記者に語ってくれた。

 ある時、徳島から来た樵(きこり)が新助の家に草鞋をぬいで山に入った。徳島で習得した伐り出しの技術を縦横に使って一躍注目を集めた、この色黒の痩せ型の樵が松田磯吉。吉野川、那賀川の上流の山林で腕を磨いた樵である。磯吉は川西家で寝起きする中にゆきを見染める。集落の長の新助も磯吉を見込んで、一人娘のゆきを嫁にやることを承知したのは、同居していた姉なつの一人息子、勇を川西家に養子に迎え入れることになったからである。明治38年11月、磯吉とゆきは山を降り、今庄城ケ端に幸せな新世帯を持った。明治43年3月29日生まれの英治郎は次男。長女ふくえを頭に、義雄、ヒサノ、英治郎、つねの5人兄弟である。母ゆきは、三女つねが生まれてから、病床につき、大正4年9月4日他界した。享年38歳。

 小学校に上がった時の英治郎の背丈は三尺三寸四分。クラスで一番のチビ。「マッタのコボ」と呼ばれた。弘法大師のように頭が良かったからである。

吉村材木店に入る

 英治郎は高等科を卒業すると、今庄の丸合運送会社に就職した。支配人だった寺田儀一は記者に語った。

 「あの子は気がきいて、ちゃっかりしてる。こっちが命令せん先に、ぴたっと進んでやる。向こうで使う者の気持ちを先にくんでしまう。だから『松田君、ようあんた仕事するなあ。』というと、『ハイ、出来るだけ寺田さん教えてください。何でもします。』こういうことを云う子どもは、なかなか居ませんよ。英治郎君が勤めて1年位した頃、私にこういうのです。」

 英治郎『ウラ東京へ行こうかと思うんだ。東京の作治のおんさんが来んかと云うので。』
 寺田『作治って、材木屋の吉村さんか。君が東京に行くことは、ウラは大賛成。今庄ぐらいの雲幅の狭いところで大きくなったところで、事が知れている。出掛けるなら東京か大阪だ。君は、弟だから、奮発する時期をなくしてはならない。しっかりやったら必ず成功するよ。』

 寺田儀一は、のちに福井県議会副議長として郷土のために尽くした人。

 少年英治郎の才能を発見した最初の人である。「作治のおんさん」とは、東京市浅草区北清島で材木店を開いていた吉村作治で、英治郎育ての親の一人。当時、店拡張のために郷里から小僧を募っていたのである。

 英治郎は大正15年秋、16歳で吉村材木店に入り、一生懸命働いた。作治も英治郎の天稟(てんぴん)を見抜いていた。夕方、外の仕事を終えて帰ってくると、先輩たちが一服している。英治郎を見ると、作治は待っていたようにまた仕事を言いつけた。「なんでオレばかりこき使うと、はじめは不服だったが、仲間よりオレが仕事が出来ることを主人がよく知っているからだ。」と、悟ってからは感謝したと、後に英治郎は語っている。

吉村魂を守る

 昭和3年、主人の吉村作治は、12人の店員を集めて話をした。

 「お前たちは、東京へ出て材木屋になるためにおれのところへ来たのだろう。お前達にきちんとした材木屋を持たせたい。その目的のために皆も働いてもらいたい。ところで、その手始めに新坂本の置場を支店として、だれか責任を持ってやってみないか。佐太郎が一番古いから、佐太郎やれ。」

 佐太郎は返事をしない。

 すると、英治郎が「そんなら旦那、私にやらせてくれませんか。」と言った。作治は困った。順序というものがあるからだ。

 「佐太郎は英治郎より2年も先に来てるじゃないか。やれないのか。」

 佐太郎はやはり黙って考えこんでいる。「駄目か、仕方ない。」というわけで、英治郎を頭に、武雄、五郎が新坂本の売場を受け持つことになった。英治郎は小僧に入って3年目にして一つの店をまかされた。

 昭和60年、東京・新宿で材木問屋の理事長をしていた塩沢五郎は、当時を振り返って記者に次のように語った。

 「私たちは、働くことで他店に負けなかった。昔は、朝3時に起きて配達に行くのはなんでもなかった。帰ってくるのが夜11時、12時になる。馬力を使えば運賃を損しますから、大八車で運ぶ。電車道でも砂利道で線路の部分だけ石畳ですから、その上を走らせると軽く走れる。早朝か深夜だけ、電車が通る前にそこを走る。新橋とか芝へ配達に行く時は、朝2時に起き出して弓張提灯を持って石畳の上を、一番電車の走る6時前に、お客さんの店に着く。松田さんがかじ棒で、私と二人で走ったものです。本店の主人は、人間は苦労しなくてはならぬと私たちに話した。私たちは主人の言う通りに働いた。苦労をなんとも思わない吉村魂を、私たち3人は誇りにしました。」

闊葉樹の専門店へ

 新坂本の店を切り盛りしていた英治郎は、持ち前の気性で率先垂範、猛烈に働いた。本店と月光町支店のちょうど真ん中に位置していたので、お客さんを三つの店で奪い合う結果になった。英治郎は、同じ品物を競争して売るのはつまらないと考え、昭和8年、雑木と言われて浅草の材木店では殆ど取り扱われていなかった、ホウ、カツラ、サクラなど闊葉樹の専門店になった。

[画像]松田英治郎氏の写真(8.2KB)

 昭和8年2月1日、英治郎は、吉村作治の遠戚で本店でお手伝いをしていた山本ナツと結婚し、新坂本の店を改装して新世帯を持った。作治の粋な計らいであった。

 吉村材木店は、東京でも大店の一つで、本店、支店を合わせると従業員は50人もいた。朝9時になると、針葉樹の葉柄材、建具材、建築材の売り込みの番頭が店の前に並んで待っている。主人はその中から上手に買って各支店へまわす。

塩沢五郎は語る。

 「ところが、私たち新坂本の店だけ闊葉樹ですので、松田さんが直接深川に行って買付けてきますが、信用がまだないので現金でないと売ってもらえない。松田さんは、深川の問屋で原木のイカダを買って、堀に預けておいて、製材してから新坂本の店に持ってくるんです。これまでの葉柄材のお得意さんを全部断って、新しいお客さんを開拓しなければならなかった。
 松田さんは頭の良い方で、お客さんに教わっては闊葉樹の品物を集め、その品物を扱っている荒物屋さんに行って、その品物の製造元を探す。深川の問屋さんへ行っても闊葉樹の用途を勉強してきて、次々に原木の売り込み先を開拓していったんです」。

当時、飛行機のプロペラ、日本刀の鞘もホウの木だったのでホウ材が飛ぶように売れた。

吉村学校の優等生

 英治郎が余り一生懸命に商売をやるので、他の業者が吉村には闊葉樹の原木を売ってもらっては困ると、深川の問屋に働きかけた。

 東京での闊葉樹の仕入れが困難になると、英治郎は名古屋の問屋と交渉し、名古屋港に買付けに行った。岸壁に船が着くと、その場でトラックや貨車に積み込んで東京へ運んだ。東京だと、船から原木を一旦海に下ろして、イカダを組んで、ポンポン船で木場まで引いてくる。その経費が馬鹿にならない。名古屋まで買付けに行ってもその方が安く上がった。

 当時、経費を2割掛けて品物を売るのが、材木屋の常識だったが、英治郎は5割、6割掛けで売った。何故そういうことが出来るのか。材料を3か月、5か月と寝かせて乾燥させてから売り出す材木屋の無かった時代に、乾燥という付加価値を付けて売ったのである。当時の材木屋では手をつけなかった新商法である。

 英治郎は、材木を丸ごと売るのではなく、カットして必要な部分を必要なだけ、合った値段で卸した。ちょうど、マグロの刺身と同じで、トロに当たる上等な部分しか使わない向きにはその部分をカットして売った。

 主人の吉村作治は、若い衆を集めては「商売は発明だ。他人と同じことをしていては駄目だ。他人のやらないことを考え、発明していかなければ、この先伸びていける筈がない」と話していた。英治郎は吉村学校の優等生だったと言える。

 昭和30年代に入ると深川にも丸太が無くなってきた。原木が細くなり、下駄箱、仏壇の側板、扉などの一枚板の広いのがない。そこで、廃材を利用し合板の一枚板にしたらと、英治郎は考え始めるのである。

英治郎の小僧教育

 材木店の経営で見せた松田英治郎の手腕は、すべて普通の材木屋とはスケールが違っていた。
昭和15年、吉村材木店からノレン分けで北上野2丁目に松田材木店として独立した英治郎の小僧教育の仕方も、それまでの業界の常識を超えていた。

 昔から材木屋の主人は小僧にはサシを渡さないが、英治郎は、入社して1か月もすると小僧にもサシを持たせて材木の検尺をさせる。納品書も書かせる。主人のやっていることを1年位で全部覚えさせた。
昭和24年に福井から松田材木店に小僧として入った鈴木義員(よしかず)は、往時の新入店員教育を次のように話してくれた。

 「15歳で私は松田材木店に小僧として入ったが、16歳の時には、もう三尺の物差を持って深川の木場へ原木の買付けにやらされました。筏(いかだ)一枚で百石から二百石はあります。それを16歳の小僧にまかせるんです。体で覚えさせるために、それだけ責任を負わせたんです。早く一人前にして独立させたかったんですね。
原木を買ってからが怖いのです。まず製材です。用途別に、原木の直径によって、鏡台はこの厚み、うちわ太鼓の柄はこの厚みと、立会って製材させ、検尺します。
 原木の石高と製材した製品の石高を調べるんです。七掛けか八掛けか、歩留まりが悪いと原木の買付けがまだ未熟だと教えられる。原木代と製材費を製品の体積で割って一本当たりの原価をはじく。これは、夕飯を食べた後、主人と机を並べてソロバンです。出来ないとソロバンで頭を叩かれた。玉がはじけて飛び散ったことがしばしばでした。」

「まず働け、貯金しろ。」「捨てるものはない、クズを生かせ。」が、英治郎の口ぐせだった。

吉村魂で精勤章を獲得

 英治郎が昭和6年1月10日、現役兵として歩兵第36連隊第3中隊に入営、看護兵となった日に給付された『軍隊手牒』を見ると、昭和6年7月10日兵卒精勤章付与、同6年12月14日兵卒精勤章付与、同7年6月10日兵卒精勤章付与と記されている。

 英治郎と今庄の高等小学校の同級生で、看護兵として同期だった野村七衛は、精勤章の件を記者に次のように語った。

 「初年兵時代、われわれは酒を飲みましたが、松田君はマジメ一点張りで、酒は一滴も飲まなんだ。軍隊のマジメには精勤章が授与される。看護兵で精勤章を3本持っていたのは松田君と私の二人だけでした。人が昼寝している時、二人は病院の兵舎のまわりの石を並べるんです。バラバラになっている石を縁に並べる。そういうところがマジメというんです。人が遊んでいる時でも仕事をしたというわけです。」

 「朝、ウラが起きんでも、2時か3時には起きて勉強やるし、仕事でも絶対に負けない。室内の掃除は無論のこと、班長殿の襟布を毎日取り替えてやる。ちゃんと新しいのを揃えて、班長殿が寝ている間にちゃんとしておく。そういうことでも人に負けたらだめで、人より先に起きてやり、だれにも負けない。あんな、マジメな人はいなかった。マレな男だった。」

 「上海事変では上海に上陸後、われわれは内科付きで、昼も夜もなく看護に全力をあげた。ずぼらな者は隠れて寝ていたが、松田君はそんなことはせなんだ。そういうことを軍隊ではマジメというんです。上海事変から帰ると、衛生兵では松田君が一人だけ、伍長に任官したんです。」

 吉村魂の権化。塩沢五郎が記者に、「私もお店から軍隊に入ったが、店の仕事より軍隊の方が半分以上も楽だった。」と話した事が思い出される。

36連隊の衛生班長

 昭和5年12月、20歳になった英治郎は兵隊検査のため今庄へ帰り、翌6年1月10日、現役兵として第九師団第36連隊に入営、第3中隊に配属された。兵科は看護卒で鯖江衛戌病院付。24人の衛生兵中、成績は常にトップ、階級も特進組だった。

 昭和7年2月、第九師団に動員令が下り、英治郎は第九師団第四野戦病院に編入され上海に上陸する。第一次上海事変である。

 停戦協定が正式に調印される前、天長節の4月29日、祝賀会場でテロが仕掛けた爆弾が破裂。白川派遣軍司令官が戦死。近くにいた植田師団長も負傷。茂光大使も脚を失う事件が発生した。祝賀会なので衛生兵は救急用具を身に付けていなかったが、ひとり松田衛生兵は、所持するカバンを持って直ちに駆けつけ、応急処置を立派にやりとげた。英治郎は植田師団長付きの看護兵となる。

 昭和18年、第19連隊に衛生軍曹として応召した時の英治郎は、兵隊たちの頼りになる存在だった。国民兵として、結婚してすぐ敦賀の連隊に召集された柴田一等兵の回顧談。

 「ある日、松田班長の戦友が野戦に転属になるので、夜10時に兵隊3人連れて敦賀駅まで見送りに行った。私も3人の中に入っていました。営門を出て駅へ行く途中に私の家内の里があるんです。『私等お見送りして、朝5時に帰ってくるから、それまでお前、そこに泊まってこい』。松田班長は私にそう言ったんです。翌日、一緒に行った兵隊が、『貴様、ええ目にあったな。わしらは、お前の泊まった家の小屋の中で夜11時ころから朝5時まで寝てたんだぞ。』
 私は本当にびっくりしました。兵隊は籠の鳥で外に出られない。松田班長は、日曜日毎に訓練と称して、兵隊たちを引率して外出してくれた。あの人のためなら死んでもええと思った。」

焦土から立ち上がる

 昭和20年3月10日。B29の大編隊が焼夷弾を百万発、千七百トンを江東地区に投下した。ぐれんの炎は下町を焼き尽くし、新坂本の松田材木店もこの時焼失した。

 出征していた英治郎の留守を守っていた塩沢五郎の話。

 「松田さんは復員しましたが、私の父が千葉県流山にいたので、そこへ訪ねて行って相談をしたといいます。たまたま父親が私に買ったらどうだと話があった売りに出ていた2町歩の栗林を、私が買わなかったので、松田さんは10万円で買ったんです。これが今の松田工業の発祥の地となった。」

 終戦で復員した英治郎は、新坂本の焼跡にバラック建ての事務所を再建し、時を移さず流山に土地を購入した。当時は食糧難。生活の基盤としての食料を自給自足するためで、初石の栗林を手に入れた英治郎は、持ち前の気性で蔬菜栽培と正面から取組んだ。材木で上げた利益を土地へつぎ込み、次々に買い足してゆき10年間で1万5千坪を越えた。栗拾いのシーズンには、取引先のお客さんに無償で楽しんでもらった。栗よりブドウをやった方がいいと、昭和26年、山形からブドウの苗を取り寄せ、ブドウ畑につくりかえた。

 初石農場の最盛時には、ブドウ畑が2町5反ぐらい、畑は借りた分も入れて3町歩、田圃が6反。昭和32年頃は日雇いを10人ぐらい使っていた。

 収穫は、麦180俵、米60俵、サツマイモは万上みりんにも運んで、3トンぐらい。スイカもトラック一杯作った。養豚は30頭、養鶏は1万羽。養鶏と養豚は、これで儲けるのではなく、堆肥を作って土地を肥やすためで、上野の本社の付近のパン屋さんからパン屑、八百屋さんからは野菜の屑、魚屋さんからは魚のアラを集めて、流山の農場に運んだ。

初石での地域奉仕

 英治郎が初石農園の開墾のため栗林に住み始めた昭和21年、十余二の飛行場の方は電気が引かれていたが、初石地区は東武野田線の線路の西側の農家まで63軒あったがまだ電灯がなかった。

 英治郎は住民の総意を集めて、東京電力と交渉し、住民の勤労奉仕で畑に電柱を立てて電気を引いたのである。

[画像]おばけ踏み切りの写真(8.9KB)

 地域奉仕とかボランティアは、英治郎にとっては当たり前のことだった。草や木で覆われた旧日光街道を、地域の人の先頭に立って昔の道幅に修復した。

 昭和27年、地元の八木北小学校には子どもの遊び道具がなかった。ブランコ、鉄棒、砂場が欲しいという声を聞くと、東京のスポーツ工場に頼んで部品を取り寄せ、初石で組み立てて学校に寄贈した。

 英治郎のヒットは「おばけ踏切」。

 初石駅に近い無人踏切が交通量が少ない割に事故が多い。地元自治会は警報機と遮断機を東武鉄道に求めたがラチがあかない。自治会長だった英治郎は九州の人形師に等身大の幽霊を二体注文して踏切に設置した。東武電車の運転手は震え上がり、本社も根負けして警報機と遮断機を設置した。

 昭和30年。初石の農園の鶏舎の傍らに英治郎は合板工場を建設した。松田材木店は、桂材を卓球台メーカーに卸していたが、天板の乾燥が悪いと、反ったり、隙間があいたりして狂ってくる。クレームが材木屋まで来る。卓球台の需要が高まってきたが桂材は少なくなった。桂材に替わる狂いのこない合板の天板製造に乗り出したのだ。

合板の研究を始める

 卓球台は、桂(カツラ)の丸太を挽いた板を5、6枚接いで作っていたが、古くなると接いだところが狂ってきて、反ってくる。ピンポン球があらぬ方向へとんでいく。

[画像]工場の写真(11.4KB)

 昭和30年に入るとカツラ材の入荷が少なくなった。英治郎はカツラ材に換わる狂いのこない卓球の天板をどうして作るか研究のため、初石農園に合板工場を建て松田材木店合板部とした。

 昭和25年、今庄から中卒で松田材木店の小僧となった田中国雄は英治郎の甥っ子だ。

 「僕らが来て5年間くらいは、タオル1本買えない苦しい時代でした。朝昼晩とコロッケが何年も続いた。印象に残っているのは、社長は復員した時はいていた軍隊の半長靴を、ずっとはいてたことです。僕が来て7年目で合板が始まって、東京の木工場に勉強に出された。ダンチが出ないよう勉強してこいという。ダンチは原理として出るものなんです。社長は木の加工に対して一家言を持っていた。こっちも勉強してきてるから反論するでしょう。すると、怒りだして藤のステッキで叩く。たしかに、基本的には作業者の技術で要領がよくなれば出なくなるんです。百パーセント使える技術を勉強しなきゃという社長の言うことは、的を得てるんです。僕は憎くて叩くとしかとれなかった。一番番頭で社長とわずかしか年の違わない塩沢さんは、お前が憎くて怒ってるんじゃないといわれた。喜怒哀楽の激しい人でしたが、怒ってばかりいたら、僕ら居ません。機嫌がいいときは大黒様みたい。怒った後は、なだめに来る。その方法は、物覚えあるかないかの時に両親を亡くして、家が貧乏やから働きにいったと、涙流して説教される。こっちも涙流して、心入れかえてやりますとなるんです。」

英治郎倒れる

 松田英治郎に、私は残念ながら生前お目にかかってない。このため「日本の卓球台を創った男」の取材には、英治郎を知る多くの方々の協力を仰いだ。英治郎の故郷、福井県の今庄にも二度ほど取材旅行をしている。福井の第九師団長だった植田謙吉氏からも思いがけない軍隊時代の回想記が届いた。

 英治郎の3回忌に、戦後の松田材木店を築いた社員たちは、英治郎の教えを後輩たちに伝えるべく「松田OB会」を結成した。そのOB会の面々の話は、人間松田英治郎を語ってあまりあるものであった。

 英治郎が初石で合板の研究に取り掛かっていた昭和32年11月3日、東京の本店で英治郎は脳溢血で倒れた。本店に居た谷口修次は言う。

 「社長が倒れた時、松田材木店は潰れたという噂が立った。問屋へ行っても現金でないと売ってくれなくなった。もう駄目だ。田舎へ帰るんだと覚悟して、田舎へ電話した。今でも忘れません。母親が、『修次、馬鹿なことを言うな。社長が死ぬんならお前も死ね。』って、母親に言われて目が覚めたんです。」

 ナツ夫人は、この時、社長名義の貯金、子どもたちの貯金まで全部おろし、板橋の土地も処分した。修次も純男も毎月、五百円、千円と貰って貯金していた金を全部おろして問屋へつぎ込んだ。「そうしているうちに社長が1年半で起き上がったら、問屋は現金なもので、今後は貸方でいいって、それが一番有難かった」と、修次。

 修次と同期の山本純男は言う。

 「社長倒れたのは僕らが入社して4、5年だった。正直言って、材木売り買いするところまでいってない。でも入った時から社長から、石数だせの、原価計算をやらされていたので、何とか間に合ったんです。」

合板の卓球台の誕生

 昭和22年、今庄から英治郎の仕事を手伝うため上京した田中千代子は語る。

 「叔父さんは寝ている枕許に私を呼んで、新聞紙を持ってこさせ、筆と墨で、叔父さんの言ったことを書かせました。俺が治ったらこういう商売を始めると、合板の卓球台のことで、ひらめいたことを私に話し、メモさせたんです。当時のカツラの一枚板の卓球台は、板と板との間に隙間が出来たり、そっくり反って品質に問題があったんですね。中へ細かい端材を入れて木と木の間にはめ込んで、上と下に板を置いて押さえつける、というランバーコアの卓球台の仕組みを、寝床で考えてまして、夜でも昼でも思いつくと、新聞紙に太い筆で書かせました。」

[画像]ランバーコアの卓球台の写真(5.9KB)

 初石の松田材木店合板部で、田中国雄と二人で合板に取り組んでいた中島実は、社報『あすなろ』に次のように書いている。 

 「日本で最初の合板による卓球台の第1号は、昭和32年12月14日に糊を付けられて張り合わせ、上下より、分厚い締台で締められ、その二日後の16日、私たちの手で誕生させたのです。病床に居た主人も、やっと体が良くなり、まる1年目で東京から流山の工場に帰ってきて、静養しながら仕事の方にも口を出すようになり、着々と合板工場を軌道にのせる事に成功したのです。しかし、その裏にはだれも知らない影の力があった。主人の奥様である。子ども達の一切の世話をしながら、自ら進んで糊付班の一員となり、夜は12時すぎまで糊付作業で年を越したその苦労は、私の口では表現出来ない程でした。」

 英治郎は、6年間1日も欠かさず温度と湿度、雨と晴、糊を何キロ溶かしたか、中島実に記録させた。何月何日、どういう時に貼ったか、クレーム処理のために、品物の経歴書を作らせたのである。

寝床で作業を指示

 その頃、ヤマハがベニヤで卓球台を造って小田原大会に出そうとしたが、大会の前日に合板に反りが出て失敗したので、ヤマハは卓球台から手を引いた。療養中の英治郎は毎日、田中国雄の報告を受けて、寝床から合板の乾燥法を指導した。

 「乾燥室では単板は反るんです。波打って接着出来ない。外に干し場を作り、単板を何百枚も、桟(さん)を入れて立てる。すると外気だとアバレない。天気予報で雨降りそうだと入れて、あとは手ざわり、カンです。社長は肌で分かれと言った。微妙なもので、馴れてくると肌とか、ホッペタをつけると分かる。」と、中島。

 田中は語る。

 「中島さんは、くちびるを触れてた。含水率は肌で分かる。それ位分からなければ駄目だと、社長に仕込まれた。今はみんな機械まかせですね。昔は、材木は表面じゃ分からんから、切って小口をホッペタにあてて、あ、大丈夫だと言った。乾燥の具合はそれで分かった。厚みでも、社長は毎日の訓練で教えてくれた。厚みを知るのに3か月間、目をふさいで何ミリメートルって当てるんです。そのうち、六分あるというけれど、五分八厘しかないと言えるようになる。計ってみると、本当に五分八厘しかない。そういうことを仕込まれた。分からないと、商売にならんわけですよ。」

 英治郎が倒れた時、長女の英子も必死になって父親のために奮闘した。

 英子は語る。

 「天板のメーカーが直接製品を小売りすることは流通機構上許されない。それで別会社をつくり販売することになり、私の名前が三浦英子ですから、三英商会とし、特許庁に行って商号を申請して来ました。父は体はきかなくても、次々とアイデアを出して、新製品を開発させました。卓球台の脚も、重い木製から軽いW型の鉄脚に変えさせました。」

大活躍した三英商会

 マツダ工業株式会社の「実用新案出願一覧表」に第1号は卓球台盤、昭和32年8月21日出願、40年1月29日に登録。有効期日48年8月20日とある。

 これがマツダ工業の基礎を築いた「ランバーコアの卓球台」である。昭和40年2月19日、英治郎は打球が強くなる「ハンディラケット」の実用新案を出願し、昭和44年4月に登録された。

 日本の卓球界の象徴といえる荻村伊智朗が、世界選手権男子シングルスで優勝したのは昭和29年と31年。「卓球日本」に日本中が沸いた。32年には田中利明が男子シングルスに優勝したが、中国の卓球が日本に追いつけ追い越せのスローガンのもと急速な進歩を見せ、昭和36年の男子団体と男女単に優勝。38年、39年は男子種目のすべてに優勝という素晴らしい記録をつくり、日本のお家芸を奪った。日本卓球のうちつづく敗退に、日本中がしゅんとなっていた時、英治郎は、特製の卓球台輸送車の背中に『中共を倒せ!』と白地に赤いペンキでデカデカと書いて走らせ、物議をかもした。戦闘的な英治郎が日本卓球界に檄を飛ばしたのである。

[画像]三英商会の営業用ライトバンの写真(7.6KB)

 昭和37年7月に設立の有限会社三英商会は、注文を受けたホーム卓球台をセドリックのライトバンの屋根に乗せて各地を走った。当時、スポーツ用品の小売店は、大きくて場所をとる卓球台を店内に置きたがらない。小売店が卓球台を発注しても問屋を経由して届くのに1週間かかった。そこへ三英商会の登場だ。小売店がお客様の住所と電話:を送ると、すぐさま全国どこへでもお客様に届ける。即納と配達付きが評判を呼んで、またたく間に関東一円の小売店を傘下に収めた。卓球台の生産台数は、昭和30年代は月産300台、40年代には月産700台、45年には1000台を超えた。

足寄に新工場を建設

 昭和54年をピークに、8万台市場と言われた日本の卓球台市場は、低迷期に入った。その原因の一つは、テレビでタモリが「卓球はネクラのスポーツ」と揶揄したからと言われる。以来、若い人たちの卓球離れが急速に進んだ。
日本の卓球台を創った松田英治郎は、昭和46年10月2日、二度目の脳溢血で倒れ、治療に専念するも薬石効無く10月30日に永眠した。

 二代目を継いだ松田英男社長は、記者に「もし、親父が生きていたら、タモリのところへどなりこんだでしょうね」と言って笑ったが、平成元年4月、松田英男社長は、東初石の工場を、北海道の木材の町、十勝支庁足寄町へ移転する決断をし、直ちに近代的な工場を建設、同年12月には「あしょろ工場」を稼働させた。

 「初石の施設は昭和32年、ランバーコアの卓球台を生産するために父が建設したもので、老朽化し建て直しの時期に来ていました。工場建て直しの件で、流山市役所を訪れたところ、常磐新線(つくばエクスプレス)計画とぶつかることが分かりました。足寄町は雪が少なく、帯広空港から車で90分の地。阿寒国立公園に接するスケールの大きな町で、86%が森林で、シラカバ、ナラ、イタヤ、タモ、カツラ、エンジュ、シナなど広葉樹がびっしり。原木を北海道に求めていたわが社にとっては願ってもないところなのです。」と、松田英男社長は語った。

 卓球台の販売を担当した有限会社三英商会は、昭和63年、株式会社三英に改組。平成4年、マツダ工業より卓球台に関する生産業務を全面的に移管され、学校体育器具の分野でも業界大手に成長。体育施設のプランニングから設計、施工まで、スポーツのトータル・メーカーとなる。現在、流山市西深井の流山工業団地に本社工場がある。


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