昭和の産業史その1


ページ番号1013079  更新日 平成29年9月15日


電気を使わない真空掃除機『フクバホーキイ』誕生秘話

[画像]当時の新聞記事の写真(6.4KB)

 流山に、79歳のいまも現役の発明家がいる。その人の名は福場博氏。

 エジソンのような発明家を「エッグヘッド」というが、発明家として一本立ちすることを目指し広島から上京した青年が、「ノン・エレクトリック・バキューム・クリーナー」(電気を使わない真空掃除機)を発明、昭和36年アメリカの特許を取得。流山の駒木台に昭和39年、「福場工業株式会社」を興し一大輸出産業に育て上げた。

 福場氏が発明した真空掃除機が世に出たのは、昭和31年2月8日付け日本経済新聞。東京上野の松坂屋で開催された東京都優秀発明展で『モーターのない真空掃除機』が入賞。写真入りで紹介された。当時は電力不足の時代で企業家たちの注目を浴びた。昭和39年、流山にフクバ工業株式会社を設立。海外に何十万台も輸出するベンチャー企業に成長した。

 「私の場合は、八転び九起きです。」と、語る福場博氏の、ベンチャー企業誕生裏話をこれから紹介しよう。

目標とした発明家

 「初めてお手紙差し上げます。私は貴方を尊敬している者です。5、6年前、新聞で貴方の事を知りまして、それ以来、私の行く道も貴方の如く進むのだと心に深く決心しました。発明家になる事に憧れ、一心に勉強していた私は、あの新聞記事を読み私の心の中の希望の火は一層燃え上がり発明家になるべく努力を倍加しました。私は貴方に私の先生になって頂きたいのです。」

 福場博氏が、昭和23年2月25日、谷本商事有限会社の谷本弘に宛てた手紙の冒頭だ。広島県人の谷本は、高性能機関銃の発明で戦時中、高松之宮技術院総裁賞を受賞した。その人が戦後、東京から広島に戻り、秤の販売会社を設立したという新聞記事を読んだ福場少年が、矢も楯もたまらず谷本に面会を求めたのだ。

最初の発明

 福場博氏は大正15年10月14日、広島県廿日市市で生まれた。兄が居たが幼いとき赤痢で亡くなり一人っ子と同じで、大事に育てられた。しかし、小学校時代は不良少年だったと、福場氏は語る。

 「小学校6年生の時、映画を観るお金欲しさに、同級生の父親の倉庫に忍び込んで、鉄線を数本盗んでお金に替えた。発覚して警察へ連れて行かれ、1分間だけブタ箱へ入れられ、ガチャンと鍵を閉められた。悪いことをしてはいけないと諭され、家へ帰されたことがあるんです。」

 高等科1、2年は超マジメで、歴史、国語も得意、字も奇麗に書いた。皆勤、学業、操行の三つとも優等で表彰された。

[画像]福場博氏の写真(4.7KB)

 昭和16年、廿日市尋常高等小学校を卒業して、三菱重工広島製作所技能者養成所に入った。戦時中で産業戦士が増産に励んだ時代。福場氏は語る。

 「二日に1回は生産現場に行って、先手(さきて)といって職工さんの使い走り小僧。職工が旋盤を回すと、青光りした切り粉が出てくる。先手は、出てくる切り粉を鉄の棒に引っかけて、ひっぱり出す。一日中立ちっぱなしです。旋盤で削った歯車にドリルで穴をあけ、手動でリーマーという穴ぐり錐で油を注入しながら仕上げる。冬など手が荒れて大変なんです。私は、これを一度数値に入れたらすーっと自動で仕上げまで削れるなと考えた。ある時、工場の中に能率を上げる発明をした者を広島県知事が表彰する旨の通達が来た。早速、日ごろ考えていたスイッチを入れると自動的に削れる図面を、全く何の期待もなく書いて出したんです。ある日、全員朝礼の時に、広島県知事から生産能率向上で表彰された者がこの中に居ると、私の名が呼ばれた。それが私の、一番最初の発明でした。賞金を200円頂きました。」

予科練から復員して

 血の気が多かった福場少年は、昭和19年9月、第15期甲種飛行予科練習生として愛媛県松山海軍航空隊に入隊する。

 「でも、私の機械に対する愛着は私の心から離れず、苦しい訓練の僅かな合間に、数学、機械工学の本を読み、発明のアイデアを見付けようと考えにふけりました。終戦時、私は高知県の水上特攻隊基地にいましたが、幸い何一つ怪我なく復員しました」と、福場氏。

 わが家へ帰って20日ばかり経つと、発明欲がむらむらと頭をもたげ、膨脹釜を考案した。「ご飯を今までの2倍位にふくらます事が出来ればいいと考えたものでした」と、福場氏は言う。

 昭和20年11月、観音町の三菱重工広島造船所に入社。タービン設計課に勤め、蒸気タービン、スチームエンジン等の設計製図に従事した。

福場少年は、自分の目標とした谷本先生に手紙を書く前に、特許、実用新案に取り組んでいる。特許出願は、自転車の変速装置。ペダルの表或いは裏を踏むことで2段変速になるもの。

「発明協会広島支部では、許可に必ずなるというので、メーカーに試作してもらおうと東洋工業社長の所に最初に持って行き、専務や研究課長の前で説明しましたが駄目。それで、広島自転車株式会社の保田理事長に話すと、仕事が空いたら試作するから製作図面を持ってこいと言う。会社を休んで1週間ぶっ通しで図面を仕上げ持って行ったが駄目でした」と、福場氏。

 この間、「今の自転車に60パーセント位の資材で作れる自転車」、「空気の断熱圧縮熱利用の石の要らないライター」、「自動的にポマードの出るクシ」、「ライター型マッチすり器」など、実用新案をかなり考案したが、実際に試作まで行けなかったことが残念と福場氏は語る。

発明家の道へ

 谷本先輩から意外に早く返事が来た。

 「拝復。御書面親しく拝見した。丁度君の歩める道は私の歩める過去と同一の歩調下にある。併し君は今後において発明家の道を如何にして維持していくかが大きな問題だと思う。勿論発明を志す総ての人は大なる空想家であり、理想家であり、又大なる信念を持って居ることは事実でしょう。併し大抵の人間が九分九厘の発明に於いて挫折します。『九分九厘の発明は0に等しい』と、私は先輩より受けた言葉を常に身に持っています。私はエジソンを最も尊敬して彼の過程を常に研究しました。私もまだ31歳の若輩である。エジソン31歳にして蓄音機を発明せり、我は今平凡なる一実業家として身を滅ぼさんとしている。是非一度君に会ってみたい。出来得れば理想を共にして進みたいと思います。」

 福場氏は語る。「私は三菱を辞めて谷本さんの会社に入りました。当時、5、6人の商事会社で秤の製造許可をとり秤を売っていたんです。谷本さんは、私を常務取締役技術部長にした。私は早速、構造簡単、使用便利、体裁優美、故障絶無、価格低廉で他社の追随を許さぬ『谷本式自動台秤』の特許を取り、製造発売したのです。」

 しかし、半年で辞めることになった。「会社のオート三輪トラックが故障つづきで、中古車として他社へ売ったんですが、どこも調子は悪くないと嘘をついた。僕は嘘をつくのは反対ですから、そういうものの考え方にがっかりして会社を辞め、友人とフクバ精機研究所を作り、ボールペンつくりを始めたんです。当時、アメリカからボールペンが入って来た。広島は金ペン製作所が一杯あるところで、その中の一社から僕は、ボールペンを作ってくれないかと頼まれていたんです。」

ボールペンを造る

 谷本と別れた福場青年は、三菱重工の技能者養成所時代の友人の庭先に、バラックのフクバ精機研究所を立ち上げ、ボールペンと取り組んだ。

 「戦前の広島は、日本で金ぺん製作所が一番多かった町で、アメリカから輸入のボールペンが入ってきた時、業者の一人から僕はボールペンを作ってくれないかと頼まれていました。どういう構造か分かりませんので、アメリカ製品を手に入れてそれを分解すると、ボールペンの先に、ボールが入って、ぐるぐる回っている。この構造をどうするか。これを、半分に切って顕微鏡で拡大して見ました。」と福場氏は語り始めた。

 少年時代、有能な施盤工として工作の機械技術は完全にマスターしている。小さなボールペンの先を半分に切断するくらい簡単なことなのだ。

 「あの頃、ボールペンのボールが1ミリメートルで、穴の直径が1.2ミリメートル、その底にコンマ4ミリメートル(0.4ミリメートル)ぐらいの穴があいていた。コンマ4ミリメートルの穴からインクが出てくる。しかし、コンマ4ミリメートルの穴だけでしたら、ボールがぴしゃっと付いて蓋するので、インクは出てこない。そのため、そこに3本溝がある。そこから出る。その溝をどうやって造るか。それから二か月、もう考え、考え、いろいろ実験して、やっと出来たんです。」と福場氏。

 フクバ精機研究所でボールペンの製造を始めると引張り凧で、毎朝、問屋さんが来て現金を置いて帰る。夕方、品物を取りにくる。半年ぐらい経ったら、売れなくなった。

 「何故かというと、国産インクがまだ完全でなく、ボールペンで書いた文字が、半年ぐらい経つと滲んで読めなくなった。官公庁では、届け出の文書はボールペンでは駄目ということになったんです。」と、福場氏。

全財産五百円

 フクバ精機研究所は、ボールペンの他、新制中学校の必需品であるロボット雨量計(移動気象台)の製造販売もしたが、世界で初めて飛行機が着陸する時の車輪と機体の衝撃を吸収する油圧クッションを発明した萱場製作所の萱場資郎社長に「私は発明で人生を樹てようと思いますが、ご指導をお願いします」と、手紙を出して知遇を得、主任技師として招かれ「KFジェットエンジン」を設計した。Kは萱場でFは福場である。このヘリコプタ翼端装着ラムジェット&フラットターボジェットエンジンは、昭和31年、米国陸軍省より研究論文の提出を要請された。そして、電気を使わない真空掃除機フクバホーキイの出発点となった「手動真空掃除機フクバ25」を考案した。この発明で世に出ようと、500円の金を懐に上京することになるのである。

 福場氏は次のように語っている。

 「昭和30年6月6日、広島駅午後2時すぎ発車の東京行き急行安芸に乗っていました。男子志をたて郷関を出ず、豈志を得ずんば死すとも帰らず、の言葉を反芻しながらホームをキョロキョロ見回していた。友人が自転車を売った金を持ってきてくれることになっていた。ポケットに持っているは、料金10円の入場券のみ!ホームの向こうから駆け足で友人がやって来た。『自転車代受け取って下さい。』
 発車のベル。車中で料金を払う。翌7日、妻と東京駅に降り立つ。ポケットには全財産500円が入っているだけ。妻の希子と私は深川清澄町にあるHモップ会社に行った。広島を出る前に、Hモップと雑巾掛けモップの新型『フクバ式モップ』の製造販売契約を結び、モップが1本売れるごとに2円50銭を貰う契約をしていた。この会社のビルの一室を借りることにしていたのです。」

フクバ―25を完成

 昭和30年6月20日、深川清澄町の鉄筋2階建ての一室で、ワイシャツの箱を利用し、真空掃除機の第1回目の試作。蛇腹式の昔のフイゴみたいなものに、ゴミがぴよんぴよんと飛び込むように吸い込まれるのが非常に面白い。第2回試作は6月23日から24日。幼児の押すカタカタとレバーが上下に動く米つき玩具の車を利用し、今度は厚紙でガッチリと製作。6月27日は、川崎のコロンビアレコード会社のテレビ生産用ベルトコンベア間歇伝導装置のデザインを頼まれ設計する。6月29日、午前零時から午前6時まで真空掃除機のデザインをする。

 何をどういうふうにするか、昭和30年後半は設計図完成、その試作に明け暮れた。昼夜構わずに二間つづきの一室で、鋸を引いたり、接着剤をつけて完成しては、おそるおそる動かしてみる。ゴミが思うように取れない。夢がスーッとしぼんで行く。

[画像]フクバー25の写真(3.8KB)

 窮したあげく、ある夜傍で裁縫中の女房の鋏とギャバジンの布を取り上げ、帯状の布切れの片面へ横に小さな短冊状に切れ目をいれ、これを木の丸棒にまきつけてみた。丁度、布のブラシといった格好で、回らない時はダランとぶら下がり、回転させると遠心力でピーンと放射状に立ち上がる。これをブラシの代わりに掃除機のボディに組み入れ、回してみた。バタバタバタッと音がして、いかにも強力な感じ。おそるおそるゴミを床にバラまいて、その上を動かしてみた。キレイにとれる。布切れの長さを半径方向にいろいろ調節していくと、益々軽く、リズミカルな音をたてながらゴミをとる。空気も相当吸ってることが分かった。

 電気掃除機と同じように布の袋をつけてみる。格好がいい。25回目の試作で完成したので商品名をフクバ―25と命名。マークも考案した。

一躍、20万台を売る

 試作品は完成した。次は商品を量産しなければならないが、先立つ資金がない。ジェットエンジン・ヘリコプターの研究で指導を受けた萱場工業の創設者である萱場さんに相談すると、「中々むずかしいとは思うが、知人に説明してあげよう」とのこと。

 昭和31年2月、東京都優秀発明展で、「フクバ―25」が入賞し、日本経済新聞紙上で紹介されるや、世人の関心も高まった。一方、萱場氏の紹介で、元海軍中将の桑原虎雄氏、その義弟のF氏(昭和交易常務)と知り合い、間もなく昭和交易によって大量生産され、東洋ブラシ工業の販売網から市場へフクバ―25が流れ出すことになった。

 当時の人気タレント、音羽よし子を使ってテレビに30秒スポットも流して宣伝に努めた。福場氏は語る。

「便利さが受けて婦人雑誌の代理部が取扱ったり、新聞や雑誌で紹介されることが重なり、31年暮れから36年の間に、約20万台の『クバ―25』が世に出た。20万台の内訳は、国内が1万弱、中国と北朝鮮をのぞく全世界が19万台余を引き受けてくれた。最も大量に仕入れたのは北アメリカでした。私は輸出用『フクバ―25』を生産するため三平興業から借金してフクバ工業を設立しました。」

 しかし、段々と注文が尻つぼみになり、ばったり途絶えた。昭和36年、S交易、K商事、急ごしらえのフクバ工業の3社は枕をならべて討ち死にした。残ったものは若干の製品と莫大な借金、そしてくたびれた身体だけ。

 失敗はしたが、三平興業・加島平吉社長との出会いは、流山での事業再建を促進した。加島社長は「カネを返せとは言わない。次の人間を育てなさい。それが私から借りた最高の返済方法なのだ」という。私はこの言葉に打たれた。

フクバ工業株式会社を再興

[画像]真空掃除機「フクバホーキィ」の写真(3.5KB)

 福場氏が流山市松ケ丘に移転したのは昭和37年。1,600万円の借金はなにがなんでも返済せねばと、一年中家にこもり、「フクバ―25」を改良したフクバホーキイの試作と実験を繰り返した。「松ケ丘の家の8畳間は畳を上げて、プレス機械を置き、松田工業から卓球台を買ってきて、卓球台の上で組み立てた。すべて自分の家で、自分の手でやろうと決心した。」と福場氏。

 昭和38年1月25日、銀行で借りた78万円を元手に、庭先にバラックを建て、たった一人で新しいフクバ工業を事実上スタートさせた。流山市商工会を訪れたのは昭和39年1月。

「設備資金、運転資金を借りたい。商工会でヘルプしていただけるか聞きに行ったんです。秋元鶴夫商工会長さんが会って下さり、そういうことなら、明日、流山ロータリークラブの卓話に招待しますから、ロータリーの皆さんにフクバホーキイの話をして下さいという。その時、秋元氏は流山ロータリーの会長さんでもあったのです。
 卓話は大成功でした。鏑木寿夫会員が、側に寄って来て、私が援助する、あんたの話が気に入ったと言われる。どこがでしょうかと聞いたら、学歴がない、小学校卒だというのが気に入ったというんです。そして、うちの土地を見にこないかと言われた。」

 かくして、駒木台163番地の山林、1,712平方メートルを貸していただくことになった。「普通なら敷金、頭金を払うんですけど、それは無しでいいよ。毎月の地代という格好ですね。資金的に困る場合は、この土地を担保に使って良いという。」と福場氏。

 まさに天佑神助。三平興業の加島社長も、流山の家に視察に見え、ホーキイを広く世に出すため、援助させろと、資本金1千万円の半分を出資してくれたのだ。

輸出貢献企業へ

 流山市松ケ丘のわが家の庭先にバラックを建て、たった一人で、手動真空掃除機ホーキイの製作に励んでいた時、三平興業の加島平吉社長が小林常務(元協和銀行大手町支店長)を伴って視察に見えた。製造過程を見、帳簿を繰った小林常務は「なけなしのカネを、手品のように使っている。発明家なんてチャランポランかと思ったが…」と、認識を新たにしてくれた。

 昭和38年初頭、自宅で生産を開始したホーキイは、7月になると月産33台、8月には80台と伸びていった。「自分が作っているのだから、製品には絶対の自信がある。販売はどうする。ここで私はまた、加島社長に助けられた」と、福場氏。

 松ケ丘のバラックを視察した加島社長は、援助したいと申し出た。「私は、万一また迷惑をかけてはと辞退した。すると、辞退するなら1,600万円すぐ返せ。返せないのなら援助させろ。三平興業として手伝うのだ。販売を担当しよう。加島の総合力をフクバホーキイに役立てたい」と。

 福場氏は、心から感謝してお受けしたという。

 フクバホーキイは、昭和38年、千葉県商工会議所連合会会頭賞。昭和39年、全国発明表彰(天皇陛下ご臨席)。昭和41年、関東地方発明表彰。昭和42年は千葉県知事より輸出貢献・技術優秀賞。中小企業庁長官より優秀商品に選定されている。

 流山市駒木台のフクバ工業株式会社本社工場のフクバホーキイの年産高は、2万、5万、7万、8万、12万、15万、20万、22万とうなぎ昇りに増え、最高年産高は37万台に達した。昭和45年、「輸出貢献企業」のプレートが、本社正門の「フクバ工業株式会社」の看板の横に掛けられた。日本を代表する輸出産業になったのだ。が、オイルショックで、従業員を100名解雇することになった。

50歳で再スタート

 海外に何十万台も、手動掃除機フクバホーキイを輸出したフクバ工業株式会社は、昭和48年10月の中東戦争に起因したオイルショックによって、大打撃をうけた。フクバ工業は250名の従業員のうち100名を解雇せざるをえなくなった。大勢の人を悲しませて社長の椅子にのうのうと座っていることは道義的に許されないと、福場氏は、会社の経営を信頼出来る人に託して、昭和51年に退社した。

 「日本の手動掃除機の市場も、現在は確立され、海外にも年に何十万台も出荷するところまできたので、ここで、ひとくぎりつけてもよかろうと思いました。50歳から新たな事業を創りあげる。何か自分の全人生を賭けても悔いない、社会の役にたつものをテーマに再出発したいと思った。」と、福場氏。

 「今後、世の中で健康管理はますます重視されるだろう。健康の入り口は口だ。口の健康はすなわち歯の健康だ。そうだ、歯のことについて研究しよう。自分の歯の状態を自分でくまなく見ることの出来る『口腔検視鏡』の研究に取り組み始めたんです」と語る 。

[画像]福場デンタル株式会社で製作したマイナスイオン歯ブラシの写真(5.0KB)

 手鏡と歯鏡が一体に構成され、格好も非常にスマートで、洗面所に置いてアクセサリーにもなるという口腔検視鏡を考案した。ひとりよがりではいけないので、特許庁で明治以来のこの種の特許広報、実用新案広報を全部調査。欧米7か国の特許広報も取り寄せた。昭和52年4月には、歯科関係では世界最大規模といわれるデンタルショウがドイツのデュッセルドルフで開催された。そこへ行き自分の研究していることと、世界の情勢がどうなっているか確認した。かくて、口腔内照射拡大検視装置「フクバ・オーラビュー」を開発。福場デンタル株式会社を創立し、歯科用医療器具メーカーとして再出発したのである。


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